小川洋子さんの小説で『密やかな結晶』という、とてもこわくてかなしい話がある。その島では、「消滅」という事が起こり、人々は一つずつあるものを失う。形あるものの時もあるし、そうでないものの時もある。その時はみんな、懐かしがったり、寂しがったりするが、すぐに元通りの生活を取り戻す。そしてそのうち、何をなくしたのかさえ、思い出せなくなってしまう。もしも「消滅」されたものを隠し持っていると、その人は「秘密警察」に捕まってしまう。また、ある人は「消滅」したものの記憶を持ち続ける能力を携えているが、そのことが「秘密警察」に知られてしまうと、やはり連れ去られてしまう。こうしてその島では、一つひとつ消滅をくり返し、次第に人も減ってゆく。
世の中ではコロナウィルスというパンデミックが発生し、この国の政府は私たちに不要不急の外出の自粛を要請した。自粛が要請されている間、人々は度重なる不自由を経験した。ある者は激しく怒り、ある者は必死に抗った。彼らの中には、自らの行動を制限されるのみならず、自粛しない他者を許さない者もいた。許さないというのは、時に言葉や身体の暴力をふるった。ともかく、自粛しない他者を見つけては吊し上げを行う彼らは「自粛警察」と呼ばれるほどに、人々が正しく不自由な暮らしをしているか目を見張っていた。その一方で、多くの人々は次第にその生活に慣れていった。少なくとも、不自由の中での過ごし方を工夫してやり過ごした。いつしか人々の話題の関心は、コロナに関連したことが中心となっていた。社会的なものも、個人的なものも、あらゆる出来事がコロナに巻き込まれていった。
そうした渦中で「子どもの日」に見た一つのニュースにわたしは衝撃を受けた。総務省の人口推計によると、39年連続子どもの数が減り続けているという事実があった。25歳である私が生まれるずっと前から、子どもの数が過去最低を更新し続けている。今日もまた、この国では人が確かに減り続けていることに改めて気づかされた。
人が減る、というのは想像以上におそろしい出来事だ。わたしは故郷への帰省の度に、ある程度の覚悟が必要だと感じるようになってきた。地方では、目に見える形で街が過疎化されている。そこでは、明らかに人通りが少なく、走る車はまばらだ。小学校は統廃合され、スクールバスが通るようになった。小中学生の頃に友達とよく遊びに行っていた大型スーパーは、潰れたまま建物だけが影を残している。父が通っていた高校は、広大な跡地だけを残している。子どものいない遊園地では、ガタガタと今にも壊れそうな音で何とか重い機体を動かしている。そこにいるととても広い場所をのびのびと占拠できるはずなのに、止まった時空間に閉じ込められてしまったような、閉塞的な気持ちになる。そういう言い方をした時点で、わたしは自分の「他者性」に気がついてしまう。既にわたしはそこの人間ではなくなってしまったようだ。正直な話をすれば、そこに住む両親や同級生らのことを思い出しながら、事態に直面化して考えることへのハードルが高い。マクロな社会変動を前にして、何とも自分の存在は無力だと感じてしまうのが苦しい。
地方ではとっくに進行している人が減るという現象も、今回のパンデミックで一気に全国に広がってしまうという事は想像に容易い。できることなら、こうした荒廃をみたくはないものだとおもうが、あまりにもその勢いが凄まじい。
人の消滅の過程では、街が衰退する。わたしが数年間店に立っていた祇園にあるスナック「りぼん」その渦に巻き込まれてしまった。今年で50周年を迎えるりぼんは、その長い歴史の幕を閉めることになった。祇園という村でそこまで続けてこれたのは、一つの伝説だとおもう。ママにとっても、支えてきたお客さまや働くスタッフ・OBにとっても大変不本意な話だ。あと何年続けられるかな、という話をしていた矢先だった。50年の終わりを迎えるにしては、あまりにも突然のことである。なによりも、消滅の実感が湧かないままに、すべて失ってしまいそうでこわい。
――消滅は静かに、そして確実にやってくる。
わたしにできることは、自身の五感で触れた記憶を記録することなのではないかとおもう。『密やかな結晶』では、記憶がある者は警察に捕まってしまうが、有難いことにこの世界では記憶を持つことは許されている。それにしても人々の記憶は想像以上にあやふやで、頼りないもの。消滅を繰り返した後、何事もなかったように愛しいあらゆるものが完全に忘れ去られ、現実に戻ってゆくことをわたしはとても恐れている。わたしは死ぬまで冷静な観察者であり続けたい。ほんの一部の記憶であっても、せめてその記憶を記録に残すくらいのことはできるのではないかとおもう。