わたしが誰かを好きになるときの、自信、確信に近いもの、あの感情をよく思い出せない。何年か前の自分といまの自分が同一人物とは思えない。では、変わったのかといわれるとちがう。わたしはなにも変わっていない。同じ人間にいろんな経験が加えられていく。元の姿をうまく思い出せないだけで。でもその時は、たしかに絶対的なものを感じている。いまこうして、わかったように言葉で説明しているけれども、やっぱりまったくわからない。そうやって自分に言い聞かせていたような気さえする。きっとほんの少しの齟齬が生まれて、嘘が重なったんだとおもう。その嘘は、相手に対してではなく、自分に対しての嘘。おとなになったわたしは、自分の感情をごまかすのがいっそう得意になってしまったのだと思う。自分をだますのがなによりもうまくなってしまったことに気がついた。そしてやっかいなことに、それはわたしが考えるに相手にとっても都合がよいこととされる。でも気がつくことができて決心がついてから、ひとつ解放された。わたしは思っている以上に無理をしていたり、言葉を飲み込んだりして、それが何ともないふうにして生きようとしていたんだとおもう。とても楽になった。ずいぶんと時間がかかった。
女性たちの話を聞いている。それは設定された調査だけでなく、いろんなところで偶然に、唐突にはじまる語りである。若い語り手であるほど、その言葉はその場で生み出されたような脆さと健気さがある。自分の言葉にしてみて、それがほんとうに、自分の人生であったことを確かめているみたいだ。まだ言葉にならないことのほうが多い。バラバラの断片的な感情を言葉にしてつなぎあわせて、自分という輪郭をなぞっていく作業。わたしはそれを目の前で見ているかんじ。目の前にいるわたしがわたしであることは忘れているみたいだなとおもう。別にその語りが事実であるとか本音であるとか、そんなことではない。彼女たちがどういった「経験」として消化して、これからの人生を歩んでいくのか、それが大事なのだとおもっている。彼女の人生で経験された、そのこと自体はまぎれもなく事実である。年齢を重ねるほど、過去の自分といまの自分を切り離す、切り離せるようになるのかもしれない。子どもの頃の経験を話した後に、その体験についてわたしの意見を求めたり、おとなになった自分の考えを話すようになる。同じ人物がひとつの人生を生きているのに、その人物から人生の一断面が離れていくようなかんじ。だからきっと、いまの自分にぴったりとくっついているものと、過ぎ去っていくものがあるのだとおもう。でも言葉にして語りなおすことで、ふたたび自分のものとして取りもどしている。
ひきこもる時間が増えた冬休み、語られた音声データを文字に起こしたものを読んでいた。読めば読むほど、いろんな人に読んでもらいたいとおもうし、どう書いたらいいのかわからなくなる。しかしまず書かなければならないと、つよくおもう。これはやはり、読まれるべきものなんだと。
たかが院生であれど、書き手である以上は弱者であってはならないとおもっている。より正確にいうと、弱者の立場として書いてはならない。わたしは自分の言葉を安易に発するのを制限している。誰かの語りを説明するのに、わたしの傷つきを持ち出してはならない。それだけは禁じ手だ。しかし過剰に意識するまでもなく若い頃の傷つきは、怒りは、だんだんと弱くなってぼやけてくる。あんなにつらかったはずなのに、今度はそれを忘れてしまうのがこわいくらいになる。その時でしか生み出せない感情というものは存在するのだ。
学生時分、スナックやラウンジでバイトしていた。辞めたばかりの頃は少しばかり未練があったけど、生活から消えるともう人生で二度とやりたいとはおもわなくなった。けれども、歌謡曲というものを知れたのはひとつの財産なのかもしれない。これを書きながらちあきなおみの喝采を流している。これに「喝采」というタイトルをつけるのはすごい。すごい、としかいいようがない。歌謡曲は人間の人生だとおもう。