現場の先生も混ざっているような教育系の学会ではじめて対面報告した。今年はすでに2回口頭発表’(社会学系の学会)したので、もういいかなと思ったけど、やっぱりちょっと無理して報告してよかったと思った。自分の研究のスタンスを改めて確認できるような時間だった。
報告を終えた後に、元学校の教員をしていた、という先生から少し納得がいかないような顔で質問を受けた。それを簡単に整理すると、子どもの話からだけでは、教師がどのようにかかわったか、それを客観的に捉えられないのではないか。これはあくまで子ども側の話を描いたということであっているか。という批判を込めたような質問だった。結局のところ、わたしの研究の視点をお伝えし、その先生の反応は、そういう視点を用いた研究を知らなかったという感じで終わった。そのあと考え直し、少し返答を間違えたな、と感じた。というのも、そういう学問領域で研究している、自分とは異なる視点で研究をしている人、もっといえば、自分とは関係ないところの分野で研究をしている人、というふうに捉えられたような気がしたからだ。
わたしが報告した内容は、子どもの立場から聞きとったデータから既存の学校文化に孕む問題性の一つを示唆したものである。だから、教師の視点を取り入れていない、子どもの世界から描いた一面的なものでしかない、「客観的ではない」という指摘は正しい。わたしの研究では、教師が「事実として」どう対応したか、そしてそれを評価する視点は取り入れていない。
しかし、現行の研究プロジェクトの背景には、教育の意味を子どもの声から考えるべきではないか、という考えが土台にある。教師がある実践をおこなったとき、たとえば、声かけやかかわりの仕方を評価するとしたら、それはまず、子どもがその教師の言動をどう受け取ったか、が大事だと思っている。だから、事実として教師が何をしたか、以上に、子どもがそれをどう受け止め、その後、学校経験をどう意味づけ、後の人生の行為選択にどう影響をもたらしているか。こうした当事者の人生が進んでいく過程のなかに、教育の意味は隠されているのではないかと素朴に考えている。なぜなら、教育という資源を受け、それを活用していくのは他でもない、子ども自身だからだ。
聞き取りで得られた語りのなかには、当時かかわってきた教師や学校に対する不満や批判も度々みられる。たしかに、そのデータだけをみると、欠席裁判のような、相手側がいない場で一方的に学校が悪く言われているような気がするのも無理はない。けれども、子どもたち、若い人たちが、そうした学校生活として体験してきたことは「事実」であると、受け止めることも大事ではないかと考えている。
最近のわたしは、若い人たち、定時制・通信制高校といった高校では周縁的な高校ともいえるような場を経由して高校卒業した人たちの、学校経験や移行過程について聞き取りをしている。いまざっと30名くらいに聞いたところである。だいたいの調査は、知り合いや協力してくださる先生方から紹介していただいた方であるが、初対面とは思えないほどよく喋ってくれる人が多い。むしろ、初対面だからこそ、わたしがその人の日常世界にはいない人だから喋ってくれるのだと思う。あらかじめこういう話をしてくださいという呈示を細かくはおこなってはいないが、協力してくれる方々は、それなりに経験してきた学校体験から思うところ(訴えたいことを)を持っている人たちが多い。思うところというのは、子どもだった時には周囲のおとなに話すことはできずに、自分で抱えて、自分の問題だとして引き受けてきたけれども、ある程度おおきくなってからは、やっぱりあれはおかしかったんじゃないか、という意味で思うところである。
子どもは、学校空間において弱者となるような存在である。そして、これだけ少子化であれば、子どもというだけで、社会のマイノリティであるともいえる。聞き取り調査を進めていくうちに、子どものときにあまりにもしっかり話を聞いてもらってこなかった人たちが多いことを実感する。何かあった時に、おとながどう助けてくれたか以上に、誰も自分の困りをわかってくれなかった、自分の話を聞いてくれようとしなかった。自分の話を聞きもせずに、頭ごなしに叱られた。「先生は話を聞きなさいと言うけれども、先生はわたしの話を聞いてくれたなかった」。そうした経験は、後のおとなへの不信感にも結びついてしまう。逆にいえば、それくらいに、自分の話を親身に聞いてくれる人、というのは、その人の支えになる。
もちろん、研究を通じて教師批判をしようという試みでは決してない。もし、教師が子ども十分にかかわれないとしたならば(ほんとうはもっと子どもたちとかかわる時間を持ちたいのに、という教師の声も聞く)、それは教師をとりまく構造にその要因があると、さらに問題を深められるからだ。そのあたりは教師の多忙化問題を扱うような教師研究をされている方々の知見からうかがえることであるし、ともかくまた別の研究プロジェクトとして取り上げるべきである。
また、教師実践に焦点を当てる研究を批判するつもりもない。現にわたしの修士論文は力のある教師からその実践を伺って再記述したものである(『関西教育学会研究紀要』21号掲載論文がそれである)。それはそれで大事な作業で、これを繰り返すことで、その実践の意義を継承するだけでなく、新たな文脈で再解釈することにもつながる。けれども今のスタンスとしては、発言力あるおとなの話をこちらが媒介者となって再記述するよりかは、声を聴かれていない人たちの言葉を聞いて、それを記述していくことに調査そのものの意義を感じている。だからそうしているに過ぎない。
こうしたところまで振り返ってみて考えてみると、今回は研究の発信者であるわたしの問題が大きいことに気づかされた。研究報告の場で、なぜ、この場(現場の先生と研究者が介在する場で)で子どもの話だけに焦点化したデータを考える必要や意義があるのか、それをまず丁寧に説明するべきだった。そういう意味では、あまりにも不親切な取り上げ方をしてしまったように思う。そこは一番の反省点である。これは、やはり聞いている相手に合わせて、研究の意義を伝えることは、大事なことだと改めて認識させられたのもそうだし、わたしが聞き得た子どもの視点に近いデータは、学校現場に近いところにいる方々が一番伝えたい相手だとも思う。
わたしは、研究の合間にスクールソーシャルワーカーとして小学校に勤務しているが、その場でも発言にはすごく間違えたなということばかりだ。こちらが何を発言したかということ以上に、相手に「どう伝わるか」、がほんとうに大事な仕事である。こちらの考えを伝えるときに、一歩間違えると教師批判に聞こえてしまうことがある。というのは、わたしが絡むときというのは、何か問題や困難があった時に限られているからだ。教師の側も、何を言われるかという警戒があることを忘れてはならない。こうした意味においても、相手に合わせて、こちらが伝えたい意図、そしてそれがどういう点で意義があるのか、ということを表現できる言語を獲得しくことは課題であると感じた。今回のいいきっかけをもとに、あえて自分が異色であるような立場となる場で発信していくことは、当たり前のことだけれども意識的にやっていきたいと思った。
それでも粘り強く研究を通じて(メタメッセージとして)主張していきたいのは、子どもの話をおとながもっと聞いてほしい、というシンプルな話である。言うならば、わたしが聞いている話は事後的な話で、調査協力者たちにとっても、ほんとうは、子どものときに、当時の周りの人たちにわかってもらいたかった思いが語られているのである。
今回、現場での教師経験がある方の反応があってよかった。これからは、できる限り広くいろんな人たちに自分がやってきたことの意味、若い人たちから聞き得た話をどう翻訳して伝えるか、よくよく練って発信を続けていきたいと思う。